自分たちは百姓もやりつつ現代美術家でもあるという、いわば兼業農家なんです。
美術作品のテーマは、環境問題など扱っているものが多いです。百姓の前からアーティストでした。そのような問題意識が強かったせいか、運命的に辿り着いたここ京都の山奥で、5年前から完全無農薬で農業を始めたのです。
そんなエピソードをエッセイとして執筆致しましたので、ぜひご拝読いただけたら幸いです。なおこのエッセイは、我々のアート作品集の中に収められ、昨年刊行されました。そちらもぜひ。→作品集リンク
百姓は爆発だ!
実に思いつき、衝動的に移住を決めた先は、京都の田舎、高齢者と空家だらけの典型的ニッポンの限界集落だった。一面田んぼだらけの山麓に静かに佇む集落には、茅葺屋根の家々が立ち並び、そのまま時代劇のロケに使えそうな、正に「ザ・ムラ」であった。我々一家のように、縁もゆかりもないこの村に、ぽっと入ってくる無謀者は皆無だったようで、村人にとっては衝撃的な出来事であったようだ。しかもオーストラリア人のジュリアは、当面の間、テレビでお馴染みのキャサリン(妃)と呼ばれる運命にあった。
以前オーストラリアの塩害に侵された大規模農業地帯で、「塩」を使って農業と食糧危機をテーマにした作品《最後の晩餐》《世紀末スーパーマーケット》を制作した。それ以来、自分たちの頭には終始「食の安全性」への不安が付きまとった。衝動的といえども、そんな経験と思いが、自分たちをここに導いたのかもしれない。移住してすぐ、村の農家さんによる連日の差し入れ野菜に感激しながらも、畏れ入った。そして農村に住みながら、自分の食べ物くらい作れないことに、引け目を感じるようになっていった。
移り住んで数ヶ月、いやが応にも転機が訪れた。隣の農家が高齢で離農。
「あんたやってみっか?」
百姓なんかやりだしたら、作品制作へのパッションと時間がなくなると、一瞬ひるんだ。以前何度か挑戦した家庭菜園は、枯らすのが得意だった記憶を振り切って、これも運命、アートプロジェクトの一環だと奮い立った。そして、やるなら当然、完全無農薬だと心に決めていた。
永年休耕地で雑草生い茂る圃場を田畑として蘇らせる作業は、正に開墾。おまけに鹿猪、猿などの獣害が酷く、二重、三重のフェンス設置作業も骨が折れた。当初、圃場は5反(5,000平米)。トラクターや田植え機もなく、すべて人力。田植え機で他農家さんが1時間で終えるところを、2週間かけて腰の痛みを抑えつつ手植え。軽トラもなく、自家用車のハッチバックに土を積んだり、苗を入れたり。農協にも入らず、オーガニックを謳い。やることなすこと他農家とはズレまくった。地元では、かなりの変わり者と認識され、日々アートパフォーマンスをやっている気分だった。
自分たちの百姓としての師は?と聞かれたら、ご近所農家さん以外には「ネット」と即答する。今振り返ると、インターネットなしでは気軽にエコ・ファーマーにはなれなかったと思う。
長く使われていなかった田畑とはいえ、遡れば散布されたはずの除草剤と農薬で、土は痩せ細っていた。野菜を植える前には、とにかく土質改良。
「山から掻き集めた枯葉」「米ぬか」「善玉菌」「コンポスト」「緑肥」など、とにかく有機物の投入に明け暮れた。
初年度の大根など親指ほどの大きさというお粗末な出来だったが、2年、3年と年を経るうちに、巨大化していった。土質が改善し、単種だった雑草が、多種多様になった。土の変化と比例するように、日々の生活で弱った自分たちの体力も劇的に改善したと感じられるようになった。
「見えない世界にカギがあるのではないか?」
そう確信した。土が世界を変えたのだ。正確に言うと土の中に生息する「微生物」が全てを変えたのである。植物は、微生物が分解したものを栄養として根から吸収しているという事実。人工的な栄養素直接投入の化学肥料とは、人間でいうと病院で施される点滴みたいなもの。人と植物の栄養の取り方は同じだ。植物は根から、人間は腸から栄養を吸収する。植物の場合、根にびっしりくっ付いている細菌が有機物を分解したものを栄養として吸収。人間は腸壁を埋め尽くす腸内細菌叢によって食物を分解、吸収と、全く同じ構造なのであった。つまり、土と人は、切っても切れない関係で繋がっているのだ。除草剤と農薬で除菌された畑の土で、おまけに化学肥料の助力で育った野菜を食べるとは、栄養の少ない残留農薬野菜の摂取で、腸内細菌を弱め、結果、人体にもという悪循環につながる。
微生物、つまりバイ菌と蔑まれた存在は、敵ではなかった。悪玉菌と善玉菌、そして時として善にも悪にも変化するゴブリンの如き日和見菌。そんな菌たちが絶妙なバランスを保ちつつ創り上げている世界がそこにあった。善と悪、そして善は悪にも悪は善にも変わるという非合理な世界は、まさに、仏陀のいう「諸行無常」「色即是空」なのであった。そしてその陰陽の均衡が重要事項。善悪を断定し、敵もろとも一掃するという、近代科学及び医学の捉え方は、全体のバランスを保つことの重要性を説く「氣」のような思想を蔑ろにしたものなのである。
そしてさらなる気付きが生まれた。畑の土の中の微生物の世界は、自分たち人間という姿を通り越し、夜空に輝く星々が織り成す大宇宙まで、すべての存在を巻き込み確実に繋がっているという感覚であった。今まで自分たちが、アートを通して追求してきた世界との繋がりは、まさにここにあった。
このような百姓体験を、アートでも生かしたい。そんな思いが実現した。昨年、新作制作(*Dysbiotica:微生物叢のバランス崩壊を描いた我々の最新作)の調査研究目的で、オーストラリアのクイーンズランド工科大学の微生物研究室の電子顕微鏡で、自分たちの口の中の世界を覗いた。PCスクリーン上に映し出された世界は、まるでグーグルアース。衛星から大陸を眺めているようで、着陸地点を決め顕微鏡の倍率を上げていくと、無数のドットで埋め尽くされた微生物の世界が広がった。やはり世界はマクロからミクロ、同時にミクロからマクロと姿形を投影するかのように構成されていたのであった。しかもその異なる複数の世界が繋がっている。そして、その事実によって「自分」という概念さえも脱構築させられた。自分は、そこに共生する何億という微生物たちもひっくるめての小宇宙的な存在だったのである。
自分たちは、主に環境問題をテーマにした作品を手がけてきたが、実生活が伴っていない引け目はいつも付きまとっていた。実際に百姓をやってみると、新たな視点で環境問題に斬り込むことが可能になった。そしてまた、この経験をアートという形で活かすことも。
百姓の語源は、百の姓を持つ人。ある時は大工、またある時は左官屋、果ては医者や神主まで、つまり、100の家業を持つなんでも屋であった。サバイバリストの元祖。自給自足、また持続可能な世界を創造するべく、様々な芸を持つ。
そういった意味で、アーティストと言うよりより「百姓=なんでも屋」と名乗ったほうがしっくりくるのかもしれない。
米谷健+ジュリア